REFLECTION2019

とあるOLの頭の中を徒然と

そんなこと初対面の人に言うもんじゃないよ

どうもKです。わたしの感覚の中で、「他人は自分が思っている以上に自分のことを重要視していないだろう」というものがある。

自意識過剰でもないし、よっぽど自分のことを気にしてみているなーとか気にかけてくれている少数の人以外は、まるでテレビのワイドショーで女優のスキャンダルだなんだーっていう限りなくどうでもいいゴシップをえー!まじでー!?わたしあの人好きだったんだけどショック‐!ていうくらいの感覚で見てるんだろ、なんて思っている。実際に日々、思ってもみないところから驚かれたり、意外といわれたり、知ったようなことを言われることもあるし、その逆もしかりだ。

 

適度な自己開示は人間関係を円滑にすることがある、と思う。

 

実は手汗がやばいんですとか、めっちゃ緊張してますとか。

出身は●●なんですとか、わたしラーメンすごく好きなんですよね、とか。

京都の方言好きなんですとか。今日母の誕生日なんですとか。

とあることが辛すぎて昨日家で泣いてましたとか。

足が象みたいにむくんでるんですけど助けてもらえませんかとか。

脈絡がなくても、突然でもなんでもいい。初対面でも適当になにか自己開示をすることで意外な共通点や相手の反応を得ることができるので、よくこういったどうでもいい自己開示をするようにしている。

 

とは言え、いきなりそんなこと初対面の人に言うもんじゃないよということもきっとたまにはあるんだろうなと思う。適当に自己開示してえええええええと相手の口からえが止まらなくなる時がそういう時だ。完全にひかれている。アイスブレイクの域を出て、こいつやべーよに陥ってしまっている。(まあそれすらどうせ30分後には忘れるんだろ?と思うくらいのメンタルなので気にはしないけれども)作戦失敗だ。こうなると相手の話は引き出せず、矢継ぎ早の相手の質問に延々回答することを求められて対話と相手の情報を求めている自分の目論見は失敗となる。よく発想が突飛すぎるのか相手に理解してもらえるまでに二度聞きならず三度聞きされることもあるのだが、それも失敗の一種だと思う。

 

あくまでも相手との対話を目的とした自己開示において、これは初対面の人に言うもんじゃなかったなと思うことがあったような気がしたんだけど、忘れた。

そんなこと初対面の人に言うもんじゃないよってことを見つけたらまた書きたいと思う。

 

 

 

 

平成終わるとか実感ないわあ

どうもKです。

平成が終わる。平成が終わる前の晩に書いていたりするんだけど、驚くほど、へーそうなんだ感がすごい。実感がない。そして少し、寂しい気もする。

 

それもそうだ。平成生まれの私のとって、今時点私の人生のすべては平成が占めているのだから。昭和も明治も大正も聞いたことしかないのだ。もちろん、令和だって。

 

平成ってどういう意味の言葉なんだろう。たいらになるってこと?平等が成り立つってこと?あほが露呈するのでここらへんにしておくことにして。

多少ぐぐった情報によると司馬遷という人が書いた『史記』の中の《五帝本紀》という一巻の中にある言葉、「内平かに外成る」と中国の古典『書経』の虞書というテーマの3番目、大禹謨(たいうぼと読むらしいよ…)の「地平かに天成る」という文言を出典としているとのことなんだけど、願いとしては「国の内外にも天地にも平和が達成される」ということらしい。知らなかったよ。

 

一方新元号の令和は出典が『万葉集』とも張衡『帰田賦』とも言われている。「万葉集」巻五の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の序文である「初春の令月にして 気淑(よ)く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」…この一節はきれいな言葉だなあと思う。

様々な災害が続いた平成の次の時代、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という願いが形になることを願うばかりだ。

 

平成と令和をならべると平和が入ってるのって、なんだか日本っぽいなあって思うんだけど。わたしだけかな。なにが日本らしいか聞かれても答えられないんだけどさ。

 

 

私が生きてきた20年そこらでもいろんなことが変わったと思う。

ファミコンスーファミになり64がでてPS、PS2PS3ゲームボーイゲームボーイカラーPSP、DS、3DSWiiPS4、スイッチに今はVRだ。

カセット、MDがCDになりDL、イヤホンからBluetoothへ。携帯はパカパカからスマートフォン

テープからDVD、ブルーレイ、今はテレビの録画はもっぱらHDD。

友達づきあいは手紙からEメール、メッセ、LINE、twitter、FB、インスタへ。

本でさえ、紙の本からKindle、新聞も紙からスマートフォンへ。

 

家族との何気ないやりとりでさえ、紙の書き置きから今はもっぱらLINEに変わった。

デジタルとツールの進化がすごい。

でもわたしの中身も、人とのコミュニケーションの本質も別に何も変わってないと思う。手段が変わっただけだ。大切なことは人間が誕生してからきっとそんなに変わってないんだと、思う。

 

新しい時代はいきなりやってくるわけじゃない。

日々少しずつ変わっていく。

前髪が少しずつ伸びて目に入る長さになるように。

爪が少しずつ伸びていくように。

少しずつ、確実に時は流れてく。

 

怖がらず、おごらず、穏やかに見つめたいと思う。

ありがとう平成。さよなら平成。

 

 

予約投稿だからこの記事が投稿されるのは令和だ。

令和、令和、令和…。慣れないなあ。

 

 

一人暮らしにおけるお料理とは

Kです。一人暮らしをするようになって、ご飯どうしてるのと聞かれ、あー作ってます、自炊します的なことを言うとすごいね、えらいね、と言われるけどそこは本質ではなくて。

 

自分にとって居心地の良い在り方を探した結果、家にある食料を思い出しながらメニュー考えて、時にネットでレシピなんか見ながら、スーパーで買い物して、もちろんエコバック使いで、ポイントも貯めながら、家に帰って冷蔵庫に材料をぶちこんで、あーまたつい色々買ってしまったなんて思いながら、好きな音楽をBluetoothで飛ばして口ずさみつつ料理して、録り溜めたテレビ番組を見ながらだらだら食べるのが好きっていう。単純に好きだからそうしてるってことに行きついた。だから、褒められた時もありがとうございますと言いながら、みんな好きなようにすればいいと思う。自炊してるからえらいです私という気もさらさらない。食生活なんて個人の自由だ。

 

自分で自分の食べるものを作る。

 

食事を作るっていうことは、自分を作るものを作るわけで、まあ勿論材料ベースからではないのだけど、自分の体調や気分や天気やなんとなく感じてる最近の流れだったり最近食べたものや食材が腐らないようにとか明日の予定とか色々な条件が重なる中で判断をして、口に合うものをつくるわけだ。

それはどこか、内省的だ、と思う。

 

料理の段取りは頭の中が現れる。

まずこれをして、これをして、その間にこっちを進めて、コンロは二つしかないからこれは先に炒めてお皿に上げておいて、とかなんとかするわけで、そこそこ集中も求められる。集中を切らすと、食材だけではなく自分の指も痛い目にあったり、フライパンや鍋に焦げ付いたり、思いっきり食材を調理器具からはじきとばしたりしてしまう。調子のいい日で、作りながらほとんどの洗い物も終えてしまえたりすると非常に気持ちがいい。

 

料理は自分と向き合う、整えるいい時間だ。

食事は自分自身とのコミュニケーションでもある。

 

あ、今日味濃かったなとか。これは薄味すぎるやろ…とか。あの調味料いい仕事してるな、とか。この食材を入れたのは失敗だったなとか。いい焼き加減だなとか焼きすぎたなとか。量が多かった少なかったとか、色々と日々思うことがある。

 

少しずつレパートリーも増やして、自分を満足させられる自炊にどんどん近づけていきたい。

完全なる自己満足にして、幸せな時間だ。

自分のために作って、自分で食べて、自分で後始末する。

生きてる感じがする。

 

明日は冷蔵庫で最近眠らせてしまっていたきのこと挽肉を使った何かを作ろう。